2019年5月3日②

5月 03, 2019

 

今のアトリエに、私の過去の作品はほとんど残っていない。スペースが狭くなるということで、引越しの時に捨ててしまったものも多い。

はるか昔のデッサンなどは、実家にあるのか、処分したのか定かではない。

一番の理由は2014年頃の展開で、自作の油絵を紙やすりで削り、跡目を描き起こすことをやった時に、まともに残っていた作品をほとんど

その展開でやすってしまったことだと思う。

その時、それまで私的には必死になって作っていた画面上での展開を紙やすりでこすることによって、絵の具は画面上のイリュージョンではなく

色の粉塵になり、私の体に降り注いだ。大きなサイズの絵が多かったので、必死になってやすった。数ヶ月かかって描いたものは、8時間もすれば、

薄ぼんやりとした痕跡だけになり、私の作業着や頭に降り積もった。

残った薄ぼんやりとした痕跡を頼りに、またそのあとの制作は続いていったのだけど、その、やすりをかける行程は

今でも自分の中で重要な行為だった気がしている。

自分の作品にあまり執着がないのは本当だけど、物質としての「作品」を手放しに信用できない気持ちが

過去作品への執着のありようの形に影響しているような気もする。

でも、その中にも絶対捨てられないドローイングや、なんでもないクロッキー帳やメモ書きもある。

他人の描いたものを貰い受けて、自分のは捨てられてもそれは捨てられなかったり。不思議だ。その基準は未だ説明できない。

後生大事に取っておくことが目的でもないのに、またこれからも、何かつくったりするのか。

それでそれを捨てることにも何か考えたりするのか。と思うと、何かと関わりを持つということにとんでもなく困難を感じることもある。

だから余計に、それについて適当にすることができないのかもしれないけれど。

関わりの中で生きていくからには、とっておくことも捨てることも、決断を下さずおいておくことも、どれからも逃げられない。

ひらりと優雅にそれらと関係を保てれば良いけれど、とにかく今はガタガタとポンコツな動きしかできていない。

もしかしたらずっとポンコツかもしれない。

 

 

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