12:58
田中さんが送ってきてくれた写真フォルダを開く。
ぎくっ、として数枚見て一旦閉じる。そして、一呼吸置いてまた開く。
自分でお願いして送ってもらったのに、なんだか見てはいけないものを盗み見ている気になった。
それが被写体の撮影者に向ける親密な眼差しによるものなのか、撮影者である田中さんがシャッターをきる判断によって見ることができるようになった瞬間のイメージを、他人の私が借りる罪悪感からなのか、もっと別の何かからなのか、今日はわからなかった。
23:34
他者の撮影した誰かの笑顔。
見たときに、少し罪悪感を覚えた。私が見ることのないはずだった表情。景色。
私ではない誰かに向けた親密な眼差し。
写真に写るイメージは常にそういった側面があるのかもしれないけれど。
他者の撮影したイメージを重ねたり変形させたりしながら崩壊させる。
私はそこに隔たれたイメージに少しでも近づくことのできる何かがあると思っているのだろうか。
濡れて水の中に溶け出していくインクによってイメージが流れ落ちていく状況が、光に照らされてよりくっきりとした色味を帯びた状態となり紙の裏にインクのシミとなって浮かび上がってくる様子を、カメラ越しに眺めている。
撮影の後にライトボックスの上に残るのはインクが流れ落ちたあとの紙。
流れ落ちる過程は過ぎ去ったけど紙はそこに残っている。
消失と出現は相反することに思えたけど、そんなに変わらない出来事なのかもしれないとぼんやりと考えながらビショビショになった紙を窓際で乾かした。
乾いていくうちに鮮やかだった色味が薄ぼんやりとしていくことに、少しの不満と、少しの安堵を感じる。
近づきたいと思っているわけではないのかもしれない。
19:58
もういなくなってしまったのに、アトリエの机に貼ってあるあれはなんだというのだろう。
未だそれがわからず、外すこともできないまま放置している。昨日と今日では、その眼差しは何が違うのだろうと考えたけど答えが出なかった。
でも、同じとは思えないことだけがわかった。
外す気が起きないので気がすむまでそのままにしようと思う。
14:02
しばらく前に、母の若い頃のアルバムの写真の写真を田中さんとってもらったことがあった。しばらく見返してなかったのだけど久しぶりに引っ張り出してみてみた。
至近距離で撮られ、田中さんの視点でトリミングされているものも多い。
一枚の写真が目に止まった。白く伸びる腕が、見えた。
なぜか私はその写真を見て、夏休みの気だるい午後の時間帯に、和室で寝転ぶ20歳の母の腕なのだと思った。
写真は横にしてみていた。
でも、しばらくの間眺めたのちに、写真は縦構図のもので教育実習初日の朝礼で挨拶をするために立っている緊張した母を撮った写真の腕の部分をトリミングして撮ったものだということに気がついた。
原本の写真は教育実習の記録アルバムの中の一枚なので、プライベートな状況の写真は入っていないとわかっていたのに、どうして夏の実家で(しかも私が行ったことのない母の育った家)、無防備に腕を出し寝転ぶ若い母の姿を思い浮かべたのか自分でもわからなかった。
誰かが撮った写真でしか見たことのない、見知らぬ母。
そして、一度違うと気がついてしまったら、もうその夏のシーンを本気で思い浮かべることができなくなってしまった。
もう2度と戻ってこない、見たこともない、眠る若い母の、白い腕。
16:15
何度も繰り返し写真を使って撮影しているのに、写された瞬間の前後に出会うことはない。アトリエのライトボックスの上で消えながら現れる別の瞬間を眺めながら流れ落ちてくる水を拭き続ける。(ライトボックスが壊れないようにするため。)
拭くために用意していたタオルや古布はみんな青紫に染まっている。撮影の度に私の指先も似たような色に染まるけど、この色が石鹸で洗ってもなかなか落ちないのが少し好きだ。
22:38
たまにこの作品の作者が誰なのか、よくわからなくなってしまう。
どこからどこまでの関わりが作者だという定義をくれるのだろう。
その定義があれば安心でもするのかしらと思ってみたけど、結局は多分できないだろうと思って、とりあえず続ける。
誰のものかもわからないもの。
私はその不安定な認識の中で流し落とし続け、そこに見えてくるイメージと狭いアトリエの中で出会い続けている。
目があったように感じた瞬間に、見えなくなっていく視線を追い続ける。