2020年5月16日

5月 16, 2020

今日は雨が降ってきて涼しいです。

そんなに強くもない雨の天気が気持ち良い。

 

あまり人に会っていないのだけど、メールやオンラインなんとかとか、なんなら手紙とかも含めて

やり取りが蜜になっているように感じてきました。不思議です。

何の気なしに会えていた時より、どうしてるかな、とか、これ伝えたいなとか、考えて連絡するから心理的作用が働いているからなのかな。

 

いいのか悪いのかはわからないけど、なんかもう一緒に住んでるんじゃないかと錯覚を覚えるくらい

息をするようにやり取りしてる人もいるけど(内容は美しい事や、ほんわかした事は皆無)、存在の感じ方や対峙の意味についてたまに考えたり。

この先どうゆう形になってくかはさっぱりわからないけど、対峙するって特殊な経験だなと思いました。

人も作品も、対峙して経験することは、メールや手紙、または少しそれ用に心の準備をして言葉を発する電話のようには

言語化できない空気とか間があるように思うと。

心地よく思うことも不快に思うことも何も含め、言葉を交わさずとも対峙するからこそ生まれる感覚があると思うと。

 

無言でも、ただ同じ空間にいる、とか、相手になにかしらの感情を抱きながら一緒にいても、言葉にはせずにいる、とか、

言葉ではなく音でしか無いような全く無意味な交流をする、とか。

限られた人に対してではなく、不特定多数の人とそんな経験を共有してたことに、なんだかびっくりします。

準備して意識して生まれる親密さと、なんかぼんやり生まれる親密さや不快感は、また違って面白い。

 

自由に対峙することができる時期になったら、どんな風に感じるんだろう。

そして、それが不自由な今、変化する対峙性とどう付き合っていくといいんだろう。

どっちがいいとかは正直わからないから、とりあえずは「あの時と比べてこっちがいい」みたいな色眼鏡をかけずに、

今、を興味深く見てみるかな、などとぐるぐる考えます。

 

今日は土曜日か。信じられん。