2016年3月9日

3月 09, 2016

最近関わったことへの覚書としての散文を。

 

作品はどの段階からモノや素材から作品になり、どの段階からモノや素材(もしくはゴミ)になるのだろうか。それは作者や鑑賞者の判断だといえばそれまでなのかもしれない。

しかし、そこに判断可能な作者はいない。゙想い゛を知る周囲の人間には冷静な判断は不可能かもしれない。

作品に想いは必要なのかもしれないが、必要以上のそれにあふれた場合、もうそれは作者の意図を超えた場所へ行ってしまうのではないだろうか。

意図を越える。言葉としての響きは良いが、その方向が私のなかでひっかかる。

自身の展示が終わって返ってきた作品と私との距離に思い悩むこととはまた種類が違うだろうが、考えずにはいられなかった。もしかしたら私が作家じゃなかったらもっと素直に

展覧会の成功を願って行動できたのかもしれない。建前ではそのような言動を連ねることは可能だ。でも、どこかでこの展覧会がたとえ《成功》したところで作者が喜ぶのだろうかという疑念が

絶えなかった。《再現》に意味を見いだせることなど、あるのだろうか。そもそも自身の不在の場でそんなことを望む作者がいるのだろうか。

ただいえることは今回の作品はまったくの別物になったということかもしれない。展示空間の制限だけの話ではない。

関わった人間が誰しも感じていた作者不在の作品の再構成の不可能性に対しての、あがきの痕跡によるものだと感じた。

プラスにはできない。プラスマイナス0も難しい。マイナスをどれだけ抑えるかという状況で、少しずつまた違う意味が出てきたのだと思う。

〝作者だったらどうするか、こんなのでは彼の仕事の足元にもおよばない〟という考えばかりだった状況から、この作品をいまここに存在させる意味を関わった人間が考え始めたときから、

〝再構成〟から〝再構築〟に変化していったように思う。

それが正しい答えだとは全く思わない。そもそもそんなものはどこにも存在しないのだろう。

不在性のかたまりのかたちをうきたたせ、そこに我々(私の?)感じた不在性を足す。その時点でマイナスでしかなかった不在性に可能性を足すことはできないのだろうか。