「私たち(We)」が共有する世界に向けて  雁来聡

2月 28, 2020

2019年4月に行われた展覧会「I am remembering why we are thinking about it.」にて製作された冊子に寄稿していただいたものを載せさせていただきます。

 

「私たち(We)」が共有する世界に向けて
雁来聡

 

この展覧会を振り返るにあたり、まずは瑞雲庵という建物についての大まかな印象を述べておきたい。この建築物は、由緒正しき家屋が立ち並ぶ上賀茂の地域(京都人にとっては「ええとこ」の代表格の一つでもある)にあって、伝統的な京町家の構造を有する物件である。
しかしこの家には、元の所有者を特定させるものは残されておらず、なおかつ奥の方には真新しい木材で設えられた現代的な居間が付け加わっており、さながらモデルルームのような風情を醸し出している。ここにあるのは、町家という記号の現前である。その空間作りには、近年京都で増加の一途をたどる町家「風」の宿泊施設にも似た、居心地の良い虚構性が見え隠れする。
そうした瑞雲庵が持つ虚構的=「ニセ物」的な性格と、一方でかつて実際に誰かが住み、使っていた(であろう)ことから発せられるリアリティのあわいを、榎真弓と武政朋子の作品たちが静かに横断する。両作家は、それぞれの仕方でこの場所との距離を模索していた。

 

かなり背の低い、いかにも往時に造られたらしい玄関をくぐると、鑑賞者はまず榎の作品群に出迎えられる。光の抑制された屋内には、《Sheaf and Stalk》と題された版画作品のシリーズが並ぶ。それは視線の切り返しが強烈な、榎の母親の若かりし頃の写真を中心に据えた和紙である。ひっそりと立てかけられ、風が吹けば微にめくれるその紙は、不在の者たちの臨在を濃厚に、かつさりげない自然さをたたえつつ、私たちに印象づける。
その自然さの所作について、榎は「場所が作品の置き方を指定してくる」ということを語っていた。言い換えれば、かつて瑞雲庵に住んでいた者たちとの交信が、榎の展示を導いたということでもある。それは何もオカルト的な意味ではなく、芸術の本来的な機能といっても過言ではない。死者のまなざしの中に自らを置く身振りが、榎のインスタレーションにも看取れるのである。作家自身が広島で育ち、死者の存在を身近に感じつつ暮らしていたことも、このような製作態度と無縁ではないだろう。
とはいえ、これら一連の展示構成は、現代美術において流行を見せる「リサーチ」ベースの諸実践ー土地固有の歴史や記憶の調査を土台に据える製作活動ーとは少し質が異なる。榎の実践は、瑞雲庵という場所の匿名的な性格を逆手に取り、和紙と和紙のあいだ、物体と物体をむすぶ線上に、あくまでも匿名的な歴史を招き入れる。その道具立ては、例えば和綴じの本の帙に置かれた薄い和紙の束であり、行灯の形を想起させる台に乗った過去作《Water Mummy》である。そして鴨居の真ん中(そこは通常、神棚のない家屋で神社の護符等が貼られる場所である)にはマスキングテープの黒々とした塊《Scrunch(Bear)》がひっそりと鎮座する。これらの鑑賞体験は、私たちが過去の出来事を辿ろうとした時に、細部がうまく思い出せず「何かが違う」と自覚しがらも記憶を再構築することに似ている。榎の作品群は、ひとつひとつの物が持つ象徴的意味にズレを生じさせながら、ありえたかもしれない別様の歴史を現出させる。

 

このような私たちの思考や認識に錯乱を起こしつつ、世界の複雑性を豊かにする営みの延長線上に、武政朋子の作品は位置付けられる。今回の 展示においては、彼女の映像インスタレーション《blank paper》のシリーズが、映像と支持体(紙や布)を含み込んだ複合的な作品として展開されていた。それらは、表/裏というカテゴリーそのものの揺らぎを徹底して思考する。
作品自体の構造は極めてシンプルである。映像には、花の写真がプリントされた紙が、水の撒かれたテーブルに裏向けに置かれることで、水の浸透とともに徐々に図像をあらわにする様が記録される。映像上の図像は、紙の印刷面のインクが溶けて裏面に染み出し、色彩を帯びて我々の眼前に現れたものである。
グレアム・ハーマン風に言えば、我々が目にするのは「実在的対象」ではなく、その一部が漏れ出たものが、翻訳され、歪曲された形で現れた「感覚的対象」でしかない。当の印刷面自体は、我々の視覚から切り離されており、その十全たる姿を見せることはない。
裏と表をめぐる真剣な遊戯と並行して、モノの存在感をあらわにする仕掛け、ないしは平面作品の支持体がモノとして認知されるための仕掛けも随所に見られた。その好例として、庭を望む廊下に置かれた小作品が挙げられよう。先ほどの花の写真が印刷された普通紙からなるこの作品は、室内から見ている限り、素朴な額縁に入れられた小綺麗な花の絵としか認識されない。しかしその作品を庭から見れば、花のイメージの支持体である木材と紙の無造作な塊が、取り繕うことなくさらけ出されていることに気づく。
こうした容赦ないモノの存在感・質感は、武政が瑞雲庵の土蔵の中に設置した大画面のスクリーンにも共通する。他の作品と同様、図像の滲出を映し出すそれは、制作過程で出来た布の継ぎ目を残しつつ、モノとしての布の姿を鑑賞者に印象付ける。そしてこのスクリーンは、あえてその裏面が蔵の入り口から垣間見えるように置かれている。そのため、鑑賞者が展示室内に入った時、入り口にちらついていた映像らしきものが、実は投射面の裏側に透けて映ったものであることが判明するのだ。

 

このように幾重にも入り組んだ裏と表、イメージとモノ、虚構と現実をめぐる二人の実践を考える上で、一つの補助線を引いてみたい。その際に、「ポスト・トゥルース」という語を引き合いに出すことは有効であろう。この言葉は元来、アメリカ合衆国におけるトランプ大統領の誕生や、イギリスのEU離脱に象徴される政治的・社会的状況を指す語であるが、さしあたって本稿では百木漠の議論を参照しつつ、次のように捉えておきたい。すなわち、人々から事実に対する信が失われ、代わって「首尾一貫性のある虚構(フィクション)」がリアルなものとして感じとられる時代である。そこでは人々がバラバラの「事実」の中に生き始め、もはや同じ世界を共有していないかのように振る舞うのだという。(i)

 

こうした時代状況に対する洞察を眺めながら、再び武政作品に立ち返ってみよう。
映像の冒頭部で映るぼんやりとした図像が水浸しになり、花の写真であることが識別可能になった時、私たちは妙な安心感を覚える。それは、我々の視覚にとって確からしい拠り所ができたためであり、鑑賞者はその図像を、ある種の一貫性を持った「リアル」なイメージとして捉えるだろう。だからこそ私たちは、「自分が見ているのは紙の裏面に滲み出たインクである」という事実を認めることに困難さを覚える。しかし同時に、その事実を受け入れることにより、新たな認識の地平が開け始めるのである。
したがって、一連の作品群のポイントは、鑑賞者をいたずらに混乱させることではない。或いはまた、別種の首尾一貫性に安易に飛びつかせるものでもない。むしろその作品たちは、複雑に入り組んだ現実への眼差しを回復させる方法を、丁寧に指し示すのだと言えよう。

 

先述の百木は、ハンナ・アーレントの「仕事」概念を参照しつつ、ポスト・トゥルース的状況に対抗する術として「物の世界」の再構築を提言している。いわく、リアリティを支える耐久的なモノの確かさにより、人々が対話を成立させるための「共通世界」を創出できるのだという。榎と武政によるモノを通した働きかけも、同様な観点から考えられるだろう。両作家の作品(work=仕事)は、いかにも京都らしい、それ自体がフィクショナルな空間にモノを通して風穴を開け、世界を再構築する。その作品たちとともに、思い出せそうで思い出せない事柄を認め、世界の複雑性をいったん我が身に引き受けることが、私たちがもう一度世界を共有する鍵なのかもしれない。

(i)百木漠「ポスト・トゥルース」『現代思想』2019年5月臨時創刊号、100−105頁

 

雁来聡 Satoshi Kariki
1991年京都市出身。京都大学大学院文学研究科修士課程修了(美学美術史学)
『京都芸術センター通信』などでの展覧会レビュー執筆や、美術関連の翻訳・通訳に従事。展覧会企画なども行う。