「何を見ても何かを思い出している」 平田剛志

2月 28, 2020

2019年4月に行われた展覧会「I am remembering why we are thinking about it.」にて製作された冊子に寄稿していただいたものを載せさせていただきます。

 

「何を見ても何かを思い出している」
平田剛志

 

人は芸術作品を見るとき、何を考えているのだろうか。その一つは、記憶を想起することだろう。マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』は、主人公が母親に出されたマドレーヌを紅茶に浸して口に含んだ時、生まれ育った記憶が呼び出される。アーネスト・ヘミングウェイの短編小説「何を見ても何かを思い出す(I Guess Everything Reminds You of Something)」では父親の息子への期待が想起によって裏切られる苦い小説だった。小説に限らず全ての芸術作品は、読者や鑑賞者によってマドレーヌのように記憶を呼び起こす誘発装置なのだ。

瑞雲庵で開催された榎真弓と武政朋子の二人展「I am remembering why we are thinking about it.(わたしは私たちがなぜそれについて考えているのかを思い出している。)」という長いタイトルの展覧会も不確かな記憶を手繰り寄せるように記憶や想起、思考をめぐる展覧会だと言える。

本展は東京都墨田区にあるギャラリーArai Associatesの新井杏の企画による。榎と武政は同ギャラリーで展示をしてきた作家だ。
榎は2015年と2018年に個展、武政は2018年にグループ展、2019年に個展を開催している。本展では、慣れ親しんだ拠点を離れ、京都の瑞雲庵で再び展示を試みる。だが、メッセージやテーマを強く主張するものではない。むしろ、作品を見て「それ」が何かを考えるという、日頃の鑑賞経験そのものをテーマとしている展覧会だ。

会場の瑞雲庵は京都市上賀茂地区にある築100年を超える木造2階建ての民家と蔵を有する古民家である。室内の一部はリノベーションされ、現代的な設備も備えるが、日本家屋の趣を今に伝える。二人の作品は瑞雲庵の各所にゆったりと展示され、日本家屋の気配、時間の移ろいとともに丁寧に見せる展示だった。

 

榎はイギリスで版画を学んだ後、近年は版画的な思考をもとに気配や重力などをテーマとした版画やインスタレーションを制作している。今展では1階土間と居間、茶室や廊下に版画、立体、陶器、オブジェ、インスタレーションなど計23点が並ぶ。
全ての作品に言及できないが、八畳間に置かれた《Sheaf and Stalk♯7》(2019)は、帙の上に黒い和紙が海苔のように積層する。オイルを浸した和紙をプレスした紙の積層は、シワやヨレが刻まれ、障子から差し込む光によって複雑な起伏を見せる。今展には和紙を重ね、束ねた作品が多くあるが、瑞雲庵が重ねてきた見えない時間の圧力、重力の存在も重なる。
庭に向かって展開するインスタレーション《Sheaf and Stalk(Garden)》(2006-2019)は透明なアクリルのボードやボックスに木片や先ほどの黒い和紙が室礼のように配置される。外光がアクリルの表面に水面のように映り込み、何かを隠しながら在る、顕すこと、内と外をつなぐ両義的な作品だ。
茶室には、テーブルの脚のような鉄の彫刻《Untitled(Chigi)》(2002)が異彩を放つ。床の間に掛けられた版画《みかえる(Michael)》(2013)には広島の原爆ドームを背に立つ女性と子供の作品が見えるが、その鉄骨の廃墟が彫刻の空虚な透き間と呼応する。
これら榎の作品には「あいだ」がある。版画のイメージと余白、紙を積層した和紙と和紙のあいだ、透明アクリルの空間は多相的、重層的な時空間を作り出している。これら作品の「あいだ」には光や風が透り、光を包み込んでいる。見えないけど確かにあるもの。それは、作品と場の「あいだ」に潜む想像力という「気配」なのかもしれない。

 

武政は絵画の現れを素材の表裏を通じて探求してきた。自身が過去に描いた絵画の表面を紙やすりで削り、その痕跡を再び絵具でなぞった《TRACE》シリーズ、建材や木材、木枠の表面の木目を色鉛筆や絵具で塗り分けたインスタレーションなど、ラディカルに絵画の生成を可視化してきた。
本展では、母屋の1階の障子、2階のスクリーンと壁面、蔵に2017年から開始した映像《blank paper》(2019)を5点プロジェクションした。
映像は色彩が滲み、皺やヨレが浮かぶさまが映る抽象的なものだ。だが、CGや染色、ステイニングではない。これは、落ち葉や花の写真をプリントアウトした普通紙を水に浸し、図像がインクの染みとなって浸水していく現象を見せる映像なのだ。映像は全て一回限りの行為を記録したものだという。映像で使用した写真は、色鉛筆で加筆した後、机上や床にクリップ留めして展示され、質感の違いを際立たせる。
蔵では、大型スクリーンに映像が投影された。モニターでは液晶面=表面しか見えないが、スクリーンにリアプロジェクションすることで、表裏に顕現するイメージの現れを見るだろう。
武政は写真のインクの分解から絵画を導き出し、その現象を映像に記録した。さらに、その結果生まれたものを色鉛筆の加筆によって「絵画」へと転生する。
水から(自ら)絵画が生成される絵画の誕生は、色彩とかたちの清々しい生成が見飽きない「水彩画」だ。

 

異なるメディアで作品世界を展開する榎と武政だが、両者には共通点もある。行為の集積と反復、紙をオイルや水に浸す偶然性、表裏の越境から生まれる陰影や気配、顕現するイメージの予兆だ。それは、未知のかたちを呼び出すために日々繰り返される実験や演習(practice)のようだ。
レベッカ・ソルニットは「あらゆる芸術家にとっては未知のもの、すなわちアイデアであれ、フォルムであれ、物語であれ、未だ到来していないものこそが探究の対象となる。扉を開いて、預言者を、つまり未知なるもの、見知らぬものを招来するのが芸術家の努めだ。」(1) と書いたが、本展の二人もまた自我を超えた「それ」の現れ、招来を探究した。本展で「それ」を見た鑑賞者は、未知の「それ」とは何かを初夏の町家の記憶とともにこれからも考え続けることだろう。それが鑑賞者の努めだ。

(1)レベッカ・ソルニット『迷うことについて』東辻賢治郎 訳、左右社、2019年、P10

 

平田 剛志 Takeshi Hirata

1979年東京都出身。京都市在住。多摩美術大学美術学部芸術学科卒業。
専門は近現代美術史、視覚文化論、吉田初三郎の鳥瞰図。アートウェブマガジン編集長を経て、2012〜2017年まで京都国立近代美術館研究補佐員。